ここに講義のレジメの一部と私の感想を少しご紹介したい。
「前回は、藤田東湖の水戸学の現代的意味について語りました。今日は、藤田東湖が、己の氣の思想の先駆者としている二人の漢土の思想家と詩人を取り上げます。それは、孟子と文天祥です。私は、『風の現象学と雰囲気』(ちなみにこの書物の第一部はイタリアのローマから翻訳出版されることになりました。)という著書の中で一応言及しているのですが、詳しくは論じていないので私の解釈を交えながら簡単にお話します。
まず私の方法について述べておきます。私はいわゆる文献学的方法を取りません。それよりも、孟子が言わんとするところを現象学の事象分析を通して明らかにするというやり方をとります。先行する思想家はすべてある事柄について述べ、解釈し、己の思想を語ったのですから、重要なことはこの事柄、事象そのものなのです。こんなことを言うと、孟子は孔子のどういうところを受け継いだのかとかを考えることが重要だという世間一般のいわゆる哲学研究者の考えは無能そのものを示します。事柄そのものを直接に主題化し、考え抜くことが重要です。
浩然の氣というのは、言葉の意味から理解すると、広い(浩)拡がりであり、然が意味するのは、肯定のことです。だから浩然の氣とは、どこまでも広く広がる海や空をそのまま肯定することです。氣という漢字は、本来は、米を炊いたときに上に広がる湯気を意味しております。そこから、息、気息、呼吸の息を意味します。したがって、浩然の氣とは、言葉どおりには、大地と空の全体に広がる息であり、世界の全体に満ちる息のことです。孟子は、浩然の氣を言葉で定義するのは難しいが、「何よりも大きく、どこまでも広がり、何よりも強く、まっすぐに育てて邪魔をしないと天と地の間に満ちて一杯になる」といいます。この「気」は、義と道によって養われるのです。道にはずれず、正しいことをしているということによって養われるといいます」。
そして、小川氏は京都市詩吟文化連盟の作成した資料を使い、文天祥の「正気の歌」の解説をされました。私が感銘した点を記します。
「「気」は義と道によって養われるのです。道にはずれず、正しいことをしているということによって養われる」と孟子の浩然の気を説明された。宋の人、文天祥は宋が元に敗れて、元に帰順するように求められるが、断固として屈しなかった。そのあらわれが「正気の歌」である。この歌には次のような内容がある。
気は天地に充満している。その正気が下は山や川、上は日や星といったものにあらわれる。それが人間の世界にあらわれると、孟子のいう「浩然の気」となる。「道義が正しく行われている時代にあっては、それは正しい政治の行われている場にあらわれて、きわめてなごやかな言論の中に表出されることになる。がもし、時代が行きつまってしまうと、人間の命をかけた節操として、永く歴史にも記されて、後世の訓えともなるような事実として、すべてあらわれることになるのである」。
現在、私は「道義が正しく行われている時代」というより、行きつまっている時代だと思う。文天祥のように命をかけて節操を守る時代なのか、そう考えさせる講義であった。次回は藤田東湖の「文天祥天地正気の気の歌に和す」についての予定である。
〇はじめに
前回、近代世界の主導原理は主観性であり、その浸透の結果、世界は全体としてゲステルと化してしまったと論じられた。主観性がヨーロッパ精神史に最初に登場したのが古代ギリシアであったということ。そして、ソクラテス・プラトンによる主観性の形而上学とヘブライズムの神という名の巨大な主観性の合体によって出現した超越の構造がヨーロッパ世界を支配するにいたったのである。今回はハイデガーを手がかかりにしながら、ギリシアにおける主観性の登場とそして主観性と「存在」との対立と葛藤について講義が進んだ。
〇主観性原理の登場
先生の見解では、主観性原理のギリシア世界への出現は、ソクラテス以前の初期ギリシアにあったといわれる。ピタゴラス(前6世紀後半)が数学的な理念的世界を出現させたこと、その志向性が主観性の超越の構造に基づくものであったと。理念的世界を志向する西洋形而上学の出現は、突き詰めれば、人類はこれをピタゴラスに負っていることになる。その上にプラトニズムが構築され、その後に西洋近代の科学的知の成立を見ることができる。
ピタゴラスの主観性の出現が、「存在」との対立と葛藤を顕在化させ、哲学の最重要課題となっていく。しかし、ギリシア世界の伝統意識から、ピタゴラス派は大迫害を受けてしまう。
それでも、主観性がギリシア世界から駆逐されることなく、その後ソクラテス・プラトンに受容される。
〇魂の転生説
ソクラテス・プラトンの人格的な魂概念もまたピタゴラス派から得られたものであり、魂の転生説に基づいている。この魂転生説は「外国産のもの」として、ギリシアの伝統意識と衝突していた。例えば、アリストテレスはこの人格的な魂をまったく評価していない。
「プラトンの論証も魂を理性(ロゴス)と同一視するところになるものであって、そうであるなら、論証を行うまでもなく、魂は不死であります。理性(ロゴス)は死なないからであります。すなわち理性(ロゴス)もまた自然的概念でないがゆえに、不死なのであります」。ハイデガーはギリシア哲学がロゴスの学に堕してしまったことを遺憾としている。
死を「考察」するものとすれば、ロゴスと同様に「優しさ」や「愛」というものを感じることはできない。「実は死のみが本当の優しさを現出させうるのであります。というのも、それのみが主観性を破壊しうるからです」。
〇ギリシアの主観性
「自然(ピシュス)と主観性の相克と葛藤こそギリシア哲学の全体的性格であり、ギリシア哲学史の中で見られる論争や対立はこの相克と葛藤の現象諸形態でしかなかった」。それなら、なぜ主観性がこの葛藤から抜け出すことが可能だったのでしょうか。「それは前5世紀後半以降のアテナイが脱自然化された都市空間だったからではないでしょうか」。ペリクレス時代後半以降、アテナイは大理石を敷き詰めた都市空間であり、脱自然化された都市でした。この点、アテナイはギリシアにおいて稀有な空間であり、そこで主観性が肥大化し、先鋭化したと考えられる。
「ソクラテスがもっぱら問題にしたのはポリスにおける人間であり、彼の関心は徳の問題、ポリスにおける「正しさ」の問題に集中しています。彼はもっぱら人間を問題としたのであります」。「人間しか見なくなった哲学は卑小です」。
「ギリシア哲学の「地」とは何か。それは何度もいうように、構造的な自然概念(ピュシス)とその呼び声に呼応した存在の思索とでもいうべきイオニア以来の自然哲学であって、自然哲学こそギリシア哲学の本体なのであります」。
〇ヘブライズムの神の登場(巨大な主観性の西洋精神史への登場)
ギリシア哲学の末期にヘブライの砂漠の彼方から神という唯一絶対の主観性が出現したとき、自然というギリシア的意識を拘束しつづけていた呪縛力の一切は喪失させられてしまった。というのは「今や自然は神によって創られた一個の「被造物」でしかないとされたからであって、このような対象物にどのような呪縛力がなお残りうるというのでしょうか。自然は今や極めて明快な対象物であり、その上さらにギリシア的知性がそれに加担するにいたって、自然はいよいよ明確に規定された合理的対象、すなわち物体世界としてその姿を現すことになります」。このすべてを合理的対象とする近代的自然概念は、ハイデガーに言わせると、存在を存在者としてしか捉えていないということになる。
「何ものも有らぬものからは生じないし、また有らぬものに消滅して行くことはない」という「ギリシア自然学の公理」と「世界の無からの創造」というヘブライズムのテーゼは、西洋文化の二つの根本性を示している。「この二つのテーゼの対立は構造的自然概念と主観性原理の対立の別表現であったわけであります」。ヘレニズムとヘブライズムの差異は、端的にいえば、存在と主観性のことである。
〇『キャリバンと魔女』(以文社)の著者フェデリーチとの出会い
山森氏の講義はフェデリーチの著作との出会いを中心にして展開した。山森氏はフェデリーチに京都の古本屋で出会い、そして約10年後、イギリスで再会される。山森氏は「魔女」についてこう述べられる。「16世紀であれ現代であれ、資本主義が土着の人びとの共同の営みを解体し、抵抗を根絶やしにする必要にかられた場合、「魔女狩り」が行われるのではないか、というのがフェデリーチの提示する仮説なのです。裏返していえば、「魔女」たちの抵抗の先に、資本主義と家父長制によって特徴づけられる近代とは全く別の、「もう一つの近代」を予知させるものであります」。
〇「家事労働に賃金を」運動
『キャリバンと魔女』の著者フェデリーチは「家事労働に賃金を」というイタリア発の国際的運動(1971)の中心人物であった。端的にいって、この運動の考え方は性別役割分業を問うものである。
「賃金を求めて闘うとき、私たちに押しつ付けられている社会的役割に明確に直接に反対しているのです」。
「私たちは労働であるものを労働と呼びたい。そうすることによって何が愛であるかを再発見できるかもしれないし、私たちがいまだ知らない私たちの性を作り出せるかもしれない」と彼女はいう。
〇ベーシクインカム
山森氏がベーシクインカムと出会うのが、大阪の日雇い労働者の支援活動をしていた現場である。ベーシクインカム(Basic Income以下BI)とは「全ての人が、無条件で、生活に足るだろう所得への権利を持つという考え方」。山森氏は国際NPO(Basic Income Earth Network以下BIEN)の理事で、海外でも活躍されている。BIENのBIの定義は「資力や稼働能力の活用の有無にかかわらず、個人単位で、全ての人に無条件で定期的に行われる現金給付」。
実際の制度として、アメリカのアラスカ州で1976年に始まったアラスカ恒久基金がある。また、給付実験は1970年代にアメリカのニュージャージー州、カナダのマニトバ州で行われた。最近では、2016年、スイスでBIの導入の是非を問う国民投票があった。今年1月よりフィンランドで給付実験が始まっている。
スイスの活動家、エノ・シュミット氏はBIは哲学であり、生き方の問題だという。
〇社会運動とBI
山森氏がイギリスでボランティア活動などに参加されていたとき、友人から偶然にも『キャリバンと魔女』を紹介されたという。このときがフェデリーチとの2度目の再会である。そして、山森氏が要求者組合の女性たちに聞き取りをしていたのも、その頃であった。例えば、社会活動家、ジュリア・メインウェリングは、全英女性解放運動会議にBIを女性解放運動全体の要求とする動議を出し、可決されたというお話しなど。
1960年代後半から70年代にかけて、女性解放運動は高揚していた。そのとき、社会から排斥された歴史上の「魔女」と自分たちの共通点を見出し、「魔女Witch」と自称する活動家が現れてきた。彼女らのマニフェストには「魔女とはいつも次のような女性のことだった。魅力的で、勇気があり、アグレッシブで、知的で、従順ではなくて、探求心や好奇心旺盛で、自立していて、性的に開放されていて、革命的であることを恐れないような女たち」とある。
女性運動家が魔女であり、魔女がBIを要求するのは当然であるし、近代のもうひとつの可能性であっただろう。今後、世界のひとつの可能性であると私は思ったし、日本でも導入の機運を高めたいものだ。
水戸学というと、皆さんはなにか右翼の怪しげな学問と思っているかもしれません。日本には戦前から、戦後は特に激しくマルクス主義やそのほかの左翼思想が浸透していますからそのように思われるかもしれません。しかも、文部省自身が偏見を持って水戸学に接したと思われます。しかし、思想の書物を読むと良くあることなのですが、実際にテキストを読むと最初持っていた先入見は吹っ飛んでしまうのです。事実、司馬遼太郎は極めて誠実に水戸学を評価しています。このことは、私は以前に『環境と身の現象学』で詳しく論じておきました。ご参照願えれば幸いです。『環境と身の現象学』晃洋書房、2004.第一部第一章1.司馬遼太郎と水戸学の理論。
まず私の自己紹介をします。私の名前にはすでに藤田東湖の影響があるのです。侃というこの名前はいまだに極めて珍しいのですが、これは、「侃々諤々」の最初の文字です。侃々諤々の議論をしたなどというふうに使いますが、これは、何を意味すると思いますか。「遠慮せずに述べ盛んに議論すること」という意味なのです。日本語を良く知らない人がよく「けんけんがくがく」の議論になったなどといいますが、これは、実は誤っています。喧々囂々(けんけんごうごう)と侃々諤々が混同されて使われています。私の名前はこの侃々諤々の「かん」ですが、これは、実は藤田東湖の漢詩「文天祥天地正大の氣の歌に和す」から取ったのだと父は言っていました。父は「侃々瞿曇(くどん)を排す」から取ったといっていましたが、これは「堂々としてあいまいな事柄を排除する」という意味なのです。今回この瞿曇(くどん)という言葉を漢和辞典で調べて、驚くべきことを発見しました。学研の漢和辞典、901ペーを見ると瞿曇というこの言葉は本来仏陀を意味したようです。したがってここの意味は、堂々として仏陀を排除するという意味に読むべきなのかもしれません。これは、水戸学の帰結に合致します。水戸学は、仏教を排し、むしろ神道を尊んだのですから。しかし、その理由は、私が知るところでは江戸時代に仏教寺院及び僧の退廃がありそれに基づいて藤田東湖はこのような結論に至ったと思います。
私はどうして水戸学に関心を持ったかということは、今のところからお分かりでしょう。要するに、私の父の影響が大きいのです。もうひとつ重要な契機があります。私は、京都大学では哲学を研究しましたが、当時京都大学の独文の美濃口坦氏と仲良くしゃべっていたのです。ある時美濃口坦がVolker Stanzelという若いドイツ人の京都大学の留学生を紹介してくれました。三人で三島由紀夫の論文などを読みました。私が京都産業大学に就職する直前だと思いますが、私の下宿にVolker Stanzelがやってきてドイツで博士論文を提出するつもりだがこれまでの読書会の成果では不満足だ。三島由紀夫では、博論にはならない。何か日本の古典的な書物が良いのでそれについての博士論文をドイツで提出したいといったのです。私の大阪の家には、水戸学の本がいくつかあり、私は水戸学の会澤正志斎の『新論』を読もうと提案したのです。美濃口坦氏はそのころすでにミュンヘンに行っていました。そこで他に日本人を誘って『新論』読書会を行いました。私も途中でドイツのケルンに行きましたので最後まで一緒に読んでいません。Volker Stanzelは、そののち一人で最後まで読み彼は、それをケルン大学に提出し哲学博士になっています。その彼が、40年後に日本に戻ってきました。今度は、在東京ドイツ大使として。日本で再会したときに、私は岡崎の人間環境大学の学長でした。岡崎は徳川家康の生誕の地です。水戸学に関連無きとはしません。そのあと、ドイツのLeuphana大学にフンボルト財団の経費で研究滞在して、日本に戻ってくると宝塚の甲子園大学の方から学長になってくれという要請がありました。彼はまだドイツ大使を継続して務めていました。私は、甲子園大学の学長でしたので、理事長の久米知子氏に提案して彼を講演に招待しました。彼は理事長には、「小川先生は私のお父さんのような人です」といってくれています。これは、ドイツの場合にはよくある「博士のお父さん(Dr.Vater)」という意味です。
東京のドイツ大使館で再会のときには、彼は私に博士論文の原本を寄贈してくれています。“Haupt der Erde“ という書物です。『大地の頭』という意味です。これは、『新論』の基本の思想を書物の表題にしたものです。『新論』の岩波文庫版217ページに「それ中國は大地の首に位す。朝氣なり、正氣なり、朝氣、正氣は、これ陽たり。」とあります。ここで注意するべきに、世界の真ん中の国は中國といわれています。これは、現在の我々がいう「中国」(China)ではありません。それは、大和のことなのです。日本のことなのです。日本のことをなぜ中國と名づけたのでしょうか。明らかに世界の真ん中の国だからです。この意味で水戸学は、徹底した日本中心主義です。その代わりにチャイナのことは、漢字の漢を使って漢土といいます。
私は以前の拙著『環境と身の現象学』(晃洋書房2004)において水戸学のもつこの日本中心主義を問題にしました。水戸学は、基本的に儒教から影響をうけてきています。藤田東湖は、孟子を高く評価していました。もちろん孟子には、革命の思想があります。孟子は、明瞭にもし王が国民を大切に思い、適切なる政治を行わなければ、そのような王は殺してもかまわないというのです。これが、易姓革命の思想です。わが国では、易姓革命は起こっていません。というよりも天皇家にはもともと姓がないのです。ドイツやヨーロッパの王家はすべて姓を持ちます。ハプスブルク家やチューダー家は有名です。しかし、天皇の下に仕えていた重臣の姓は変わっているけれど、-藤原、平氏、源氏という風に―代わっているけれどしかし天皇家には姓がない。ドイツから日本に来たドイツの哲学者を私はかなりお世話したのであるが、あるとき一人の先生、トリアーのオルト教授が私に「日本の天皇家はどういう姓であるか」と、問いました。私は奇妙なことに日本の天皇家には姓はないと答えると大変驚いたのです。彼のおおきな「驚き」に私は改めて驚きました。
私たちの大和の国はこのような意味でかなり特殊なのです。天皇家の発祥についても定かではありません。神話はたくさんありますが、大和朝廷の歴史も起源も実は明解にならないのです。
後期水戸学の思想は、このように、徹底した日本中心主義になります。だが、困ったことが起こります。先ほど述べたように、水戸学は孟子の教えを引き継いでいるという風に自認しています。水戸学を受け入れた松下村塾の吉田松陰は、水戸学を尊重し、松下村塾の教科書の多くは水戸学のものでした。吉田松陰は、孟子をも読んでいます。吉田松陰には『講孟余話』という書物がありますが、そこには、たとえば、よく孟子を読み込んだ学者として伊藤仁斎を取り上げています。このように考えると、「藤田東湖先生、水戸学はシナとの関係をどう考えるのですか」、と問わざるを得ません。日本が世界の真ん中の国、中國ですから、お隣の国を漢土と呼んでいます。日本人がためらうことなく現在では隣のシナのことを中国と呼ぶのには問題があると私は思っています。もっと厄介なことに、シナには漢土を中心とした華夷秩序があります。華夷秩序を基にして考えると、これは、シナ中心主義になりますが、日本は東の蛮族、野蛮人、東の夷なのです。朝鮮半島には、この華夷秩序が厳格に支配しており、韓国や北朝鮮などは基本的にシナの方を向いており、日本には軽蔑をこめて野蛮人、東の夷、東夷と見ています。
私の主な問いは孟子が水戸学とくにそのチャンピオンであった藤田東湖にどのような影響を与えたのかということです。ここで水戸学の歴史を改めて振り返っておきましょう。水戸学は17世紀水戸の藩主、水戸光圀の招いた明の学者、朱舜水に由来し、学派として当初は水戸学の大日本史の編纂の事業に従事しました。
朱舜水は朱子学に属し、水戸学はそれゆえ当初は朱子学派でした。しかし、後期の水戸学は、朱子学派ではなく、むしろ日本の伊藤仁斎の影響下にあり、すべからく漢土の学問に関しては朱子学ではなく「孔子と孟子に帰れ」をモットとする基本的な意味で古学派に属します。「孔孟に帰れ」という指針は伊藤仁斎と水戸学とくに藤田東湖を結合する太い線です。このパイプはどこにあるのでしょうか。私の答えは次のとおり。水戸学のひとびとは、文献引用をしないので文献学的には論証は困難なのですが、おそらく伊藤仁斎の57歳のときに仁斎の古義堂に入門した、仁斎の最後の弟子の一人であった大串雪瀾にあると思われます。藤田東湖の『弘道館記述義』や某宛の書簡のなかで同じ江戸時代の古学派のなかでも藤田東湖は京洛の伊藤仁斎を高く評価し、江戸の荻生徂徠を批判しています。
藤田東湖は考えます。「荻生徂徠は日本の儒者であるという自覚がない。己をシナに引き渡している儒者である」という点が批判の要点です。彼は自らを東夷と称しているのがその証拠です。ところが自らを東夷と述べることはなくまた朱子学を排して極力孔孟に帰れと唱えた伊藤仁斎の末弟の大串雪瀾はのちに水戸の彰古館の初代の総裁になっています。この彰古館こそほかでもない水戸の弘道館の前身です。したがって伊藤仁斎から藤田東湖の後期水戸学にいたる線を太く確認することができます。
孟子の易姓革命の思想に対して藤田東湖はどのように考えたのでしょうか。藤田東湖の易姓革命に対する対処の仕方はどのようなものでありましょうか。藤田東湖は孟子の易姓革命の思想には反対です.国家の制度などシナには神州よりも勝っているものが多くあることをみとめていますが、彼は王の恣意による禅譲や放伐という悪王の暴力による討伐には反対したのです。王権に対して覇権を認めなかったのです。その意味で藤田東湖は徹底した秩序論者です。父の藤田幽谷から受け継いだ『正名論』の線に沿って秩序と大義名分論をとるのです。つまりそれぞれの社会階級、それぞれの人間、それぞれの国家には一定の秩序があり、この秩序のもとに世界は統治されているわけです。この秩序を破るのが姓を変える易姓革命です。易姓革命とは姓を変えて王室および支配者を変えるのは天命であるという思想です。「君主が明らかに徳を行わず国民に非人道的なこと、人間の道にもとることを行えば、国民はその君主を暴力によって廃絶してもかまわない。むしろそれは天の命令である」このように孟子が考えたのであるが、この考えは水戸学の取る道ではない。だが藤田東湖は柔軟な思想家なのです。易姓革命は漢土の人々には必要な思想であろうが、しかし同じ考えを日本人もとるわけには行かないという考えです。「シナには易姓革命を受け入れる素地がある.実際に皇帝の姓は変わったではないか」.これに対して日本では易姓革命の思想は日本の風土と<氣>に合わないというのです。日本では姓を変えないでずっと同じ天皇の系統が連綿と続いているではないか.ただし,東湖は易姓革命がまったくよくないと言うのではなく孟子のうちにある、人民の利益を考える孟子の態度と思想には共感を示しています.この論点はとくに藤田東湖の『孟軻論』に詳しく述べられています。その『孟軻論』のなかで東湖は孟子の王道の思想、つまり王たるものは利を計らず、ただ仁と義によって治めるべきであるという考えには一応の理解を示すのですが、しかし、この王道の思想はよく読めば王たるものに相応しからぬ者の王位からの暴力による廃絶をも論理的に含意していることになります。つまり孟子には易姓革命の思想が高鳴っているのです。東湖はここから孟子の易姓革命の思想は日本、神州に当てはめるわけには行かないと主張するのです。
そうすると水戸学や藤田東湖は孟軻の書物はことごとく排除するべきなのでしょうか。孟子の書物はまったく意味がないのでしょうか。孟子の書物が東湖にとってまったく意味がないわけではないのは明らかです。孟子には浩然の<氣>の思想がある。「孟軻の王道決して神州にもちうるべからず、しかれどもその心を存し<氣>を養うの論、国を治め民を安んずるの説、かの異端を弁じ邪説をやめ、もって先聖の道にならうものとにいたりては、すなわち孔子また生まれるといえども必ずその言をかえざらん」と藤田東湖はいう。このように東湖は孟子の浩然の<氣>の思想や民を安心させるという説にははっきりと共鳴を示しているのです。
すると孟子の「浩然の氣」の思想を藤田東湖はどのように理解していたのかを問わなければならないでしょう。東湖の浩然の<氣>の理解は、孟子に直接結びつくのですが、しかし他方では文天祥の『正氣の歌』からも影響を受けています。そしてこの『正氣の歌』自身が孟子の浩然の<氣>のひとつの解釈なのです。それは一言で言えば<氣>を正しい行いの結果<身>のうちにあるとし、且つ天地の間を満たす正しい精神の力であるとみるのです。
そもそも<氣>とはなにか。浩然の<氣>を孟子は次のように説明しています。浩然の<氣>とは、まず言語で述べること、表現することができない、つまり言語による客観化以前の次元に属しているというのです。言語による述語化の以前の次元に属しているわけです。人間が主語を立てて述語付けをするのを述語化とか述定というのですが、その意味では述定の以前の次元にこの<氣>は属しているのです。そして<氣>は身体を満たすのです。<氣>は私が<身>のうちに感じ取るものの全体であり、この感知の体験の全体の体系です。このような意味で<氣>は身に充ちるものです。早朝、起床のおりに私は身の具合から<氣>を感じ取ります。蒸し暑さ、清々しさを感知することによって実は<身>の全体を感知しているし、これは<氣>を感じ取っていることに他ならないのです。今日も元気だとおもうし、なんとなく微熱があって元気がないというときもあります。しかしこの<氣>は至大至剛であり、かつ天地の間に満ちるのです。<氣>を養うのは正しい行為の積み重ね(義)であり、もうひとつは道であります。道は空虚な天と地の間の開放性であり、要するに真理の明け開けであります。<氣>は義と<道>によって養われているのです。ここに義と道が<氣>を養うものとして配されているのに注意するべきです。
このように孟子の<氣>は道と義とにかたく結び付けられてひとつの構造をなしている。<氣>を養うのは道です。あきらかに、気を理と結びつけて大きな極つまり世界の根源の果てにあると考えた朱子は孟子の解釈としても誤りです。つまり、気を養うのは義と道です。とりわけ<氣>を<道>と結びつけて解釈すべきであります。<道>はもっとも変化しないものです。<道>はだれにも開かれてあり、真理の中の真理であり、大道というものとしてだれにも開かれている明け開けであります。このように見ると、藤田東湖の<氣>の解釈はきわめて孟子に近いということがわかります。なぜなら東湖は<氣>を不変のものと見ているからです。<氣>は不変であり、存在論的に言って世界の根本のあり方であり、それは道と義といわば三位一体を形成しているのです。藤田東湖ではこの<道>の概念はまったく孟子に由来しています。水戸学が己のよって立つゆえんの学校を弘道館と名づけたように、「弘道」とはひとに道を広めることです。
道とは何でしょうか。道とは学の結果知りうるものであるとともに天地の間の存在の真理です。道は同時に実践に関わります。道は行くもの、行じるものです。孟子の告子章下にあるように道は大路という、あるいは天地の大経(つまり大きな真理)にしてだれもがそれを良く知りわきまえており、その上を歩く道です。同時に学の結果知るものでもあるのです。水戸学では<道>は古道、神道、斯道の<道>であり、結局のところそれは神々と人間とが一つとなる道です。この<道>を神人一如の道というのです。要するに、水戸学の考えでは道というのは天地のあいだの存在の真理であり、神が人となる道であります。
このように藤田東湖の<氣>の概念は、孟子のかなり忠実な解釈ですが、しかし同時に孟子以上に明確な存在論化を遂げているとともに文化論としては日本化されていると思います。
これに対して文天祥の正気の歌はその<氣>の概念に時間的な変化、政治的な変化を許しています。とくに王朝の名前、国の名前がシナではたえず変わったのです。これが藤田東湖の指摘する文天祥における<氣>の概念の時間的なあるいは歴史的な変化という批判点に関わります。文天祥は「<氣>が歴史的に時代の変化をこうむる」と考えると藤田東湖は理解していますが、これに対して藤田東湖によると日本の<氣>は不変化であります。日本の<氣>は変化することなく普遍的であります。
してみると、孟子および文天祥の<氣>と水戸学の<氣>の差異と同一性はどういうところにあるのでしょうか。水戸学の<氣>は孟子の場合と同じように<道>と結びつきます。<道>は神と人との一如の事態であり,天と地の真の存在であり,学問の結果とその実践です。それに対して孟子の<氣>,文天祥の<氣>はどうでしょうか。私の答えはつぎのとおりです:孟子の<氣>は義と<道>と結びつくのです。しかし存在論化を完全に遂げているわけではなく、また孟子の場合には神人一如の意味での<道>の意味はないのです。これに対して藤田東湖の場合は明確に<道>に存在論化の道、神人一如の道、神の道という意味が盛り込まれております。
藤田東湖が、父,藤田幽谷より孔子,孟子の哲学倫理の上での重要性を学んだのは確かであります。さらには文天祥の『正気の歌』を父より与えられ幼少の頃からこの詩をそらんずるまでに学んだと告白しています.文天祥は孟子の「浩然の<氣>」に影響されており、『正氣の歌』の正しい<氣>というのは孟子の浩然の<氣>にほかなりません。藤田東湖が「文天祥の正氣の歌に和す」という著名な漢詩を書き、それが日の本の志士を鼓吹したのは明治維新の直前の頃でした。ただし東湖の漢詩は根本においてまったく独自の日本的な色彩の<氣>を主張する「正しい<氣>の歌」でありました。
藤田東湖のほか一般に水戸学にはシナとの関係において一種自己矛盾があります。というのは藤田東湖のこの漢詩は文天祥というシナの詩人を模範としてそれを変形し、いわば換骨奪胎するという仕方で己の詩を創作するという一種の屈折した態度があるからです。いったい水戸学にとってシナの文化は何を意味するのでしょうか。それは単なる模範なのか、それとも、学び乗り越えるべき対象なのでしょうか。水戸学にとって孟子や文天祥は一体どういう意味を持っているのでしょうか。孟子のなかにある易姓革命の思想、<氣>の思想、文天祥の正しい<氣>の思想などに対して藤田東湖はどのように関心をもち、どのようにこの逆説的な態度を乗り越えていったのでしょうか。水戸学や藤田東湖の孟子の思想に対する見方は両義的であります。
いっぽうでは藤田東湖は、シナの孟子や文天祥から学ぶところが甚大でありました。<氣>、<道>、孔孟の道すべてシナの思想です。にもかかわらず水戸学は最終的にはシナの思想や文化を越えて超克する道を選んだのです。それは日本の独自の文化と思想を自己主張するということに結びついたのです。要するに、私がかつてある論文で書いたように水戸学と藤田東湖の根本の思想は「学びつつ乗り越える」という道でありました。シナから学びつつそれを乗り越えて新しい日本の独自の思想を作り出すということでした。ここにおいて思想の次元での「対決するという態度」が見出されます。ドイツ観念論をはじめとするドイツの文化と思想はまさしくギリシャの文化と思想と対決し乗り越える努力のうちに培われたのです。それと同じことが水戸学や藤田東湖においても当てはまります。先行する思想は始原にあるがゆえにつねにある種の特権性をもつわけです。根源にあるものはまさにその根源性において他の己に従うものの模範となるわけです。その意味では根源的なものは支配するものであるが、しかし、この支配するものが支配するのはまさに従うものがあるが故であります。従うものが、つまり後続するものが存在しないにもかかわらず支配するものが支配することはありえません。このように考えると、水戸学もしくは藤田東湖の孟子もしくはシナの文化と思想への複雑な屈折した態度が理解できましょう。そしてこれは後続するもののもつ決意によるのです。それは学ぶことによって超越するという決意であります。
とはいえ超越するためには己の思惟の地盤のうちにとどまることが必要です。己の確固たる思惟地盤を持つ必要があるのです。水戸学の場合ではそれは日本の伝統と万世一系の天皇の伝統でした。それは日本の文化の根源です。だからこそ、私はかつてこう書いたのです。「もし日本人が欧米、漢土、インドから学びつつそれを乗り越えることができるとすればただ日本の大地に実存の根を張り巡らすことによるのみである。水戸学が身をもって示したのはこの逆説的な事態であり、その意味でわれわれは今日でも水戸学から学ぶことがあろう。」 このことを別の言葉で言えば私たちはつねに一定の状況のなかに投げ入れられてそこから新たなる解釈の試みを企投することになるのです。このような先行的な導入の思索ののちに一体どのようなことが水戸学もしくは藤田東湖と孟子に関して言えるのでしょうか。両者の間の種々の問題にすべて言及することはできませんので、<氣>と<道>とに絞りながら藤田東湖と、孟子および文天祥の関係がいかなるものであったかを明らかにしましよう。
藤田東湖の孟子に対する態度は両義的であります.孟子には<氣>に関して問うべきことは種々あるがとりわけ<氣>が易姓革命と関係付けられて論究されています。藤田東湖がとりわけ文天祥の『正氣の歌』をそらんじるくらいに学びながらもっとも批判的に対峙したのは文天祥の理解する<氣>が時代とともに変遷するということにありました。
孟子の易姓革命の思想に対しては否定的な東湖も,孟子の<氣>の思想,「浩然の氣」については大いに共感と関心を示している.<氣>の理論は実際に孟子によって浩然の<氣>として発見され,文天祥の『正気の歌』の中で生育したのです.東湖は<氣>について次のように考えています。文天祥の場合は形而上学的な<氣>の意味が時間の経過とともに変遷と歴史性を被ると理解しています.つまり<氣>は時代と共にまた人々と共に変化するというのです.<氣>はこの意味で易姓革命に対応しながら変化することになります。
ところが東湖は,日本では<氣>は変わらない,<氣>は不易であり,変じることがないと見ています.これは,文天祥も孟子自身もよく見通さなかったことです.藤田東湖の『孟軻論』,『文天祥「天地正大の氣の歌」に和す』においてこの考えは極端に主張されています.<氣>の思想と易姓革命の思想は,じつは,深く連結しているのです。してみると<氣>はいったい変化するのでしょうか,それとも不易で一定なのでしょうか.
<氣>は変化しないのでしょうか,それとも変化するのでしょうか.この問いに東湖はおそらく具体的に答えるでしょう.<氣>は一民族の具体的な在り方に関わります.どのような習慣,風俗,慣習,国家体制などにも関わります.水戸学の<氣>は朱子学の理と気の二元論の気ではないのです。水戸学では,<氣>はむしろ<道>とひとつになっているのです。水戸学の道は『弘道館記述義』に見えるように、孟子の告子篇の下にあります。「それ<道>は大路のごとし。いかで知りがたからんや。」孟子,下,212.道は,水戸学の解釈では天と地の間の存在の真理であり,学問の結果知りうるものであり, 実践することでもあります。<道>はこのように大きな路であり,だれもそれに接近できるものです,もしその意志があるならば。
仏教の立場から近代思想の問題点を指摘され、また自覚を通した「一人(いちにん)」あるいは、平野氏が言う「仏教的コト的自覚」の考え方を示された。今回も私の関心から少しご紹介したい。
〇天空と大地から見るヒト
最初に平野氏はヒトの在り方を天空と大地から説明される。二足歩行するようになったヒトは、天空によって感じていた自分の「有限性の自覚」を忘れ、大地のおかげで食を得るなど、様々な意味での場所である「縁起の感覚」を失ってしまったと。
天空の大きさによる自分の卑小さを忘れ、大地が支えてくれている場所の縁起の感覚が薄れた近代人は、無限に自らの欲求にただ駆られたヒトになり、争いが起こる。
〇親鸞はヒトの在り方を転じるはたらき(他力)を海にたとえる
平野氏はヒトが広大な海を渡ろうとするたとえ話をされた。その話しは海の働きで自力が転じる様子を説明された。ヒトは海を渡ろうとするが、その限界を知る(自力無効の気づき)。渡れると思ったが、それ以上に海は広かった(天空における自覚と同じ)。しかし、海には浮力があり、自分の力だけではなかったことに気が付く(大地における自覚と同じ)。そして、海には「自力で頑張っていた在り方を転じて、海の浮力で生かされてこそ生きていたんだ」という在り方に転じる力がある。この働きを他力と親鸞はいう。
〇近代人の自由
近代になって、ヒトは、空虚な殻になった個人といわれた。権利として内面的な自由を獲得した近代人は、自由の内容が空白である危険性があると指摘された。ここでエーリック・フロム『自由からの逃走』を引用された。フロムによれば自由には二重の意味がある。まずは、「積極的な自由は、能動的自発的に生きる能力をふくめて、個人の諸能力の十分な実現と一致する」。もうひとつの意味が問題である。すなわち、「近代人は伝統的権威から解放されて「個人」となったが、しかし同時に、かれは孤独な無力なものになり、自分自身や他人から引きはなされた、外在的な目的の道具となったということ、さらにこの状態は、かれの自我を根底から危うくし、かれを弱め、おびやかし、かれに新しい束縛へすすんで服従するようにするということである」。
〇仏教的コト的自覚(いちにん)
それなら、「天空と大地において、我を自分と自覚」させるとは、どういうことなのか。平野氏はこう説明する。「天空によって我が有限であることに気がつかされ、大地によって我が生かされていることを実感させられることを、私は「仏教的コト的自覚」と呼びます。上から見られ、下から支えられている世界全体の中で、その世界に組み込まれている私を世界の「部分」として自覚するとき、私は「自分」となります。自に「分」が付くのは、天と地の中で、世界全体の中で、つまりコト(物事、出来事)の中で私を自覚しているからなのです」。しかしながら、世界の中で私の自「分」に気が付くことは簡単ではない。というのは、ヒトには「意識の虚妄性」や合理性のために、「仏教的コト的自覚」へ至るには容易ではないので、教えが必要であると私は思った。平野氏はヒトの心は絶えず動き、怪しいものだということを自覚させる宗教、それが仏教であり、私達が普段考えている「我」の存在を仮定していない教えでもあると言われた。
〇仏教における自由
〇仏教における自由
「法(ダルマ)は、あるひとつのコスモス(法界)をもつ」。この意味を眼(げん)根(こん)(見る働き)と耳(に)根(聞く働き)と鼻(び) 根(嗅ぐ働き)で説明された。
この三つの働きは、どれも交換不可能であり、妨げ合わなく、統一するものなくして統一している。つまり、眼、耳、鼻はそれぞれコスモスをもち、互いに自然に統一している状態にある。このような状態を仏教では自在であるという。また、西洋近代の自由は人間を分断してしまう面があることも指摘された。
〇親鸞思想における個の自覚の時
どのような時に自覚するのか。その具体例をいくつか紹介された。そのひとつはが、平野氏の知人の娘さんの作文「生きる喜び」。彼女は小学生の頃、白血病と診断された。
「入院と聞かされた時は、とてもつらかったです。父も信じられなかったのでしょう、「先生、じょうだんやろ。」と、何度も聞き返したくらいなんです。それから、いすに座って待っている時の父の顔は、一生忘れられないでしょう。目には涙がたまっていて、つらく悲しい顔でした。でも、力強い感じがしました。入院の準備のために家に帰った時、なんだかみんなそわそわしていました。そして、私を見る目がいつもとちがっていました。(中略)退院の日、六か月ぶりに外へ出ました。外は、別世界のような気がして、青い空や白い雲、色とりどりの草花など自然がとても美しく思われました。
私は、病気にかかり、つらいこと、悲しいことなどいろんなできごとがありました。でも、くやんでなんかいません。かえってよかったと思っています。ふだんあたりまえのように思っていたことが、今では喜びとなり、健康で生きていけることは、本当にすばらしいことだと気づかされたからです」。
そして、岩崎航さんの例を挙げられて、次のように言われる。「病気になったにもかかわらず生きる希望を失わなかったというよりむしろ、病気になり生きる希望を失ったからこそ、ありのままの自分を受け止めようという気持ちが存在の奥底から沸き起こってきたのでしょう」。
平野氏は西洋近代の自由の陥りやすいところを「宿業からのがれる」自由とし、仏教の自由を「宿業を引き受けた」自由とまとめられた。私が最も興味深く、日本の伝統にも根差していると思ったのが浄土についての見解である。「宿業を引き受けることのできる自己を獲得して使命を生き切られた無数の人たちの人生を、光り輝く華として荘厳した世界が浄土なのです。そしてその浄土から我々一人一人が、あなたもそういう人生を歩んでほしいと願われているのです」。
私は仏教を基礎にした「いちにん」あるいは平野氏の「仏教的コト的自覚」という考え方と、西洋から日本に入ってきた「個人主義」を縁にして、大地に根差した考え方が生まれそうな予感がした講義であった。
はじめに、先生の講義は質・量ともに高度しかも大量であったので、私が理解したところから少しご紹介したい。ご関心のある方は次の講座に参加してください。先生によれば、ハイデガーはソクラテス・プラトンをはじめとした2000年強の西洋形而上学、すなわち、主観性を立ち上げる考え方は、存在の真理を隠蔽してしまったと指摘されました。この主観性の原理は、ソクラテス・プラトン以降の西洋形而上学だけではなく、キリスト教やラテン文化によって決定的となった。西洋形而上学と対峙することは2000年にわたる哲学の意味と性格を問い直すことであり、その課題を追求したのが、ハイデガーであった。この問題設定は近・現代の課題へ異なる視点を与えてくれる。
〇主観性の形而上学
ハイデガーが対決した「西洋形而上学」とは一体何であったのか。端的に言えば、キリスト教的プラトニズムと総括できる。先生はこう述べられる。「キリスト教は宗教的形態を取った主観性の形而上学そのものであり、「神のキリスト教化」(ハイデガー)を策動した原理こそ主観性であります。超越は主観性の志向性に基づいてはじめて開かれる霊的領野であり、超越的一神教の背後にある原理もまた主観性なのであります」。
先生はハイデガーの「神のキリスト教化」をこう説明される。「実はキリスト教の神が人間を支配しているのではなく、むしろ真実は逆であって、人間(主観性)が超越の構造を生み出し、それを維持しつづけているのであります。そして神もまたその超越の構造の中に投げ入れられているのであります」。そして先生は「プラトンから近代までの世界を支配した原理は主観性」であると述べられる。
〇西洋形而上学(プラトニズム)と科学
主観性とは何か。それは一切を「自らの前に立てる」原理であり、主観性はすべてのものを己の前に立つ対象と化せること。この知の構造はまさにプラトニズムである。
科学はハイデガーのいう「存在者」と「存在」の差異を無視しつづける特徴がある。つまり、世界を「存在者の領分」一色で塗りつぶすのが本性である。
〇中世における主観性
先生は中世の「主観性の哲学」から考察される。「中世世界に作動していた原理は主観性であって、神そのものがヘブライズムの系譜においては巨大な主観性だったのであり、中世キリスト教の哲学は何にもまして主観性の哲学なのであります」。先生によれば、ニーチェが批判したのは、キリスト教そのものではなく、この中世的原理であったと言われます。ニーチェは西洋形而上学の原理にはじめて気がついた哲学者であり、「ヨーロッパのニヒリズム」は西洋形而上学の帰結なのである。
〇主観性の自己意識(自覚)
先生は近代こそ、主観性原理の結果の世界であると言われる。また「西洋近代の哲学的探究を確実性への志向性と化してしまったもの」、それは要するに主観性が自己意識(自覚)に至った結果なのである。この主観性の原理は構造上、対象との距離が生じ、そこに疑念や不安が生まれてくる。これは西洋近代の形而上学の根底にあったものである。しかしこの主観性の在り方は運命(ゲシック)でもある。
デカルト哲学の確実性への希求も不安が動因である。「デカルトをして疑いえない第一原理をあれほどにも激しく求めさせたもの、それは己の知と対象との間に開いた距離、空白、欠如であり、己の知の正しさに対する疑念と不安なのであります」。
〇「正しさ」の哲学
先生は主観性の原理によって必然的に生じた対象との距離からくる意識の正しさへの衝動は、非常に激しいと言われた。「主観―客観、認識―対象、ノエシスーノエマの構造がいわば西洋近代哲学の鋳型ですが、この鋳型は「前に立てる」(vorstellen)ことを本質とする主観性の哲学の超越的構造が生み出したものであり、この構造の中に存在が入ってくることはありえません」。
「正しさ」すなわち「認識と対象との一致」を実現しようとする西洋近代の認識の哲学は、結局、徒労に終わらざるをえないと先生は言われる。というのも主観性それ自体に限界があるからである。先生は言う。「主観性は己に自足できない原理であります」。「主観性が己を主張するとき、そこには必ず空白が生じます」。「特に自己意識(自覚)にいたった主観性はこの宿業性をもろにわが身に引き受けざるをえないのであって、西洋近代の哲学は総じて主観性のこの宿業性の哲学的表現でしかなかったといって過言ではないのではないでしょうか」。
〇「正しい哲学」と後期近代世界
ハイデガーに言わせれば、「正しさ」や「誠実性」が仮に成立したとしても、それはあくまで真理の頽落態でしかない。存在の現出、存在の湧出こそが真理なのである。
先生は最後にハイデガーを引きながら「ハイデガーの「脱存」は主観性の我執への囚われからの解放を説くものであって、主観性の我執からの解放がならずしてどうして存在の真理が露になることなどありえようかというのがおそらくハイデガーのいいたいところでありましょう」。この発言は仏教の文脈でよく言われる「執着」や「我執」から離れろという教えと内容が一致していると私は思う。
私が日下部先生から学んだことのひとつは、西洋の精神に貫いている原理として、主観性の原理という考え方を用いると、うまく説明ができること。そのことに驚いた。
―エグモント・吉田松陰の死と共にーであった。私(水口)が関心をもった「死」と「教育」について、ソクラテスと吉田松陰を中心に下書きをし、小林先生に加筆・訂正等をして頂いた(特に後半の文章)。
従って、この文章は小林先生と私と二人で作成したことになる。
まず「死」については、ソクラテスと松陰ともに死によって自身の主張を実現したいという意図があったとの指摘である。自分の死より優越、優先する信念や哲学が二人ともにあったことがわかる。ソクラテスにとって死は、「アテネの社会を変える」か「若者を目覚めさせる」かのいずれかである。松陰は渡航を試み、伝馬町牢屋敷に投獄される。そこで自ら死罪が妥当だと主張し、当局の逆鱗に触れ、斬首刑に処された。満29歳であった。
教育について、ソクラテスは「対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する」。いわゆる産婆術であり、これが教育法でもある。講義ではソクラテスの名言も紹介され、例えば「本をよく読むことで自分を成長させていきなさい。本は著者がとても苦労して身に付けたことを、たやすく手に入れさせてくれるのだ」、「良い本を読まない人は、字の読めない人と等しい」、「勉学は光であり、無学は闇である」。
ソクラテスの思想は現在にまで影響している。講演者は次のように言った。「ソクラテスの死がプラトン等を育て、プラトン等がギリシャ哲学の基礎を作り、ギリシャ哲学がヨーロッパ文明の基礎を作り、ヨーロッパ文明が現在の世界文明の根幹を作った」。
吉田松陰の家は代々、藩主や藩士に兵法を講義するのが職務であり、松陰も幼少から勉学させられた。松陰もソクラテスと同様に教育に熱心であり、叔父から松下村塾の名を引き継ぎ、松下村塾を開塾する。ここでの教育は師から弟子に一方的に教えるのではなく、「松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけではなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だった」。松陰の言葉にも「今日の読書こそ、真の学問である」、「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ」「百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない」というのがある。
次に講義は日本の教育の現状、特に教育機関への公的支出の話しに移る。例えば「日本の教育機関への公的支出は、経済協力開発機構(OECD)加盟国34カ国中、最下位である。
特に日本の高等教育への公的支出はGDP比でアメリカやドイツが1%なのにその半分の0.5%しかない。しかもそのOECD加盟国34カ国中、最下位の状況でさえ、公的支出を毎年1%ずつ削減を続けている。その結果、日本が世界的な科学雑誌に掲載された論文数も減少を続け、このまま問題を放置すれば、日本の世界での地位が脅かされるとネイチャー誌が警告している。(英科学誌「ネイチャー誌」3月23日)
講義では、一貫して若者への教育の重要性が述べられ、教育予算の削減は結局、国の危機へつながるものであると主張された。この点は私をはじめ、参加者も共感していた。なぜ日本は高等教育に対する予算が他の国より少ないのに減らし続けるのか。意図的なのではないのかという疑問さえ出た。
エグモントの死がオランダ人を独立へ奮い立たせたように、吉田松陰の死が若者を倒幕へ奮い立たせた。オランダの独立がオランダ初のライデン大学の創設をもたらしたように、倒幕に続く明治新政府が新しい政治体制と共に教育制度を作った。この新しい教育制度が多くの若者を育て、日露戦争の勝利をもたらした。我が国は敗戦国になったが第二次世界大戦はインドやベトナム、フイリッピンなどの独立をもたらした。
我々はソクラテスや吉田松陰の名言「本をよく読むことで自分を成長させていきなさい。
本は著者がとても苦労して身に付けたことを、たやすく手に入れさせてくれるのだ」の大切さを再認識する必要がある。真の歴史を知るには本を読むことは必須である。例えばルーズベルト大統領の前任者のフーバー大統領は20年を超える歳月を使って死の直前に書き上げ、長く日の目を見ずにいた厖大な量の回想録「Freedom Betrayed」(2011)がある。そこには「日本との戦争の全ては、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であった」と書いている。また、アメリカの歴史学者チャールズ・A・ビーアドは著書「ルーズベルトの責任 〔日米戦争はなぜ始まったか 上、下」藤原書店 (2011).で、ルーズベルト大統領を「戦争責任者」として告発している。
今もソクラテスの言うように「勉学は光であり、無学は闇である」。
すべての政治思想の原型を書き記したマキアヴェッリは、トランプアメリカ大統領を果たしてどのように見るのか。ドナルド・トランプ、アメリカ大統領は、マキアヴェッリの目にはどのようにうつるのか。これが、私の問いです。この問いに答えるのが今日の私の講演のテーマです。
私は最近マキアヴェッリについての書物を書きました。『ニッコロ・マキアヴェッリと現象学』と言う書物は京都の晃洋書房から出版されています。この書物の序文にも書きましたが私はもともとマキアヴェッリには大変関心がありました。私の学生時代は、学生運動の最盛期でした。学生は否が応でも政治に感心を持たざるを得なかったのです。当時は、革マル、三派以外に全学連の組織もあり、京都大学では今の京都大学正門バス停のある東大路で戦闘が起こっています。それに、加えて民主青年同盟(日本共産党の青年部)もあり大変な時代でした。京都大学の場合は、民主青年同盟がヘゲモニーを握っていました。そういう中で、私と友人達は、大学に秩序を回復すべし、さもないと学問はできないと言う主張を友人の小林道夫などと述べていました。他の組織からは「右翼秩序派」と呼ばれていました。こういう時代でしたから学生は誰もが政治に関心を持たざるを得なかったのです。私がマキアヴェッリに接近したのはこういう経緯からです。
政治をレアルにみるマキアヴェッリの手法は私を魅了しました。しかし、彼の書物をすぐに哲学の研究の対象にすることはできませんでした。なによりもマキアヴェッリは、哲学者とはいえないからです。むしろ、彼は文筆家です。『マンドラゴラ』などという喜劇も書いています。マキアヴェッリには、哲学においては常道の認識論(私たちは何を認識でき真理と認めるのかに答える学)も存在論(「ある」ということは、何を意味するのかに答える学問)もありません。だから正確に述べると彼は哲学者ではありません。むしろ文筆家です。エッセイストです。劇作家です。彼が極めてまじめに取り組み、研究したのは、リヴィウスの『ローマ史』なのです。彼は、この歴史家から多くを学びました。私は彼の主著は、『君主論』ではなく、『ローマ史論』だと思います。この『君主論』は、彼が就職活動の一環で書いた書物ですが、極めて著名になり、且つ悪名も高まったのでマキアヴェッリすなわち『君主論』と思う人がいて、ネットでの私のマキアヴェリ論への感想のところに『君主論』のことばかり書いている人がいます。私は拙著のなかで、何度もマキアヴェッリの主著は『君主論』ではなく、『ローマ史論』であると書いているにもかかわらずそのように感想を書いている人がいます。『ローマ史論』といわないで、私はいまのマキアヴェッリ全集の翻訳に依拠して、『ディスコルシ』と書いています。中央公論の世界の名著版のマキアヴェッリのところでは、内容を取って『政略論』と訳されていました。同じ人が訳しています。『君主論』は、あくまでもマキアヴェッリの就職のための書物だったのです。彼の本当の信念が描かれているとは言えません。
もう一つ述べれば、マキアヴェッリは、君主制が最も良いとは考えていませんでした。むしろ、『ローマ史論』によると、ローマの共和制が最も良いと見ていたのです。さらに言えば、ローマの多神教を通じてはるかに古代ギリシャのアテネにまで精神的には結合しているのです。
もう一つ驚くべきことは、彼は、むしろローマの多神教が良いとも考えていたのです。古代ローマの雰囲気の中に生きていたからです。日本人はあまりにも単純にキリスト教は一神教だと考えるのですが、それも誤りです。多くのところで私は言っていますが、マキアヴェッリは、いちおうカトリックですが、一神教ではなく、一つの神の多くの権威への分割分散を認めています。それは、次のことに示されます。マキアヴェッリは、フィレンツエ共和国第二事務局長として、法律の起草に関わっています。そのときに法律を三位一体の神(父と子と聖霊)、聖母マリア、洗礼者聖ヨハネ(フィレンツエの守護聖人)の名前で起草しています。これは、多神教とはいえないけれど一種の多神教の傾向を持つと考えることができます。つまり、カトリックはおおくの守護聖人を作るからです。実は、イタリア全体の守護聖人は、シエナの聖女、サンタ・カタリナ・ダ・シエナです。こういう傾向は、神道や仏教と似ています。仏教では如来以外に多くの菩薩を崇拝します。菩薩と言うのは、もちろん、ボディサトヴァですから、仏になるために修行している人間です。菩薩は修行中の「人間」なのです。
2015年に北ドイツのニーダーザクセンに2ヶ月滞在したときにGoslar という神聖ローマ皇帝の居留地を訪問しました。Kaiserpfalzというのですが、訪問の価値はあります。北ドイツは基本的にルター派の教会が多いのです。私はとある教会で問いをかけました。それは、8月15日のMarias Himmelfahrtの日だったのです。私は牧師さんに「今日は聖母マリアが天に昇った日ですね」といいますと、顔を曇らせて、私たちは、聖母マリアを認めていませんといいました。ルターには妻がいました。その妻と結婚したいがためにルターは、プロテスタントをたてたのだと、言えなくもありません。親鸞を思い起こします。もちろん、チェーザレ・ボルジャの父、教皇アレッサンドロ6世のようにカトリック教会は、当時は神父の結婚を暗黙に認めており、彼は教会を徹底して堕落させました。
人間はすべて一つの時代に生きています。マキアヴェッリは、いったいどういう時代に生きていたのでしょうか。その時代の人としてマキアヴェッリは何を考えたのでしょうか。
その頃のイタリアは、大変な時代でした。日本風にいえば、一種の戦国時代です。イタリアはまだ統一されていませんでした。封建領主、教皇領、自由都市が混在していました。それだけではなく、これは拙著にも書いておきましたが、1494年、つまりコロンブスがアメリカを発見した2年後に突如、フランス王、シャルル8世がイタリアに攻め込みます。アルプスのふもとの町グルノーブルに軍隊を結集して、モンジュネーブル峠を越えてイタリアに入り、3ヶ月後には、ナポリに到達しています。
マキアヴェッリが生きた時代のイタリアの混乱はそれだけではありません。彼が亡くなる直前に書いた手紙が残っています。その手紙にははっきりとこう書かれています。Io amo la patria mia....これは、旧友ヴェットーリに宛てたもので、彼の最後の手紙です。それは、「私は祖国を愛しています」という意味です。君主論の一節との連関からこの「祖国」を私はイタリアと解釈していますが、フィレンツエだという解釈もあります。この手紙は、いわゆるサッコ・ディ・ローマという大事件の直前に書かれたのです。マキアヴェッリのイタリア人に宛てた遺書ともいえます。
サッコ・ディ・ローマとは、いったいなんでしょうか。これは、ローマ劫略と言う訳語が定着していますが、簡単に言うと、ドイツの神聖ローマ帝国軍が一週間の間ローマの町を蹂躙したと言う事件(1527)です。強盗、殺人、強姦、強奪を一週間の間ローマの町で行ったのです。もし現在の日本の東京の中心部、たとえば、山手線の内側がそのようなめにあったらどうでしょうか。マキアヴェッリの生きた時代のイタリアはそのように無力だったのです。ローマは一応イタリア全体にとっての「永遠の都」です。
最近はネットが重視される世界です。私の書物を読んだ感想のなかには、なぜ現象学と結びつくのかわからない、とか、『君主論』のことばかり書いている人がいます。こういう人々は、私の書物をまったく理解していません。読んでも理解できなかったのか、それとも、読まなかったのかのいずれかです。なかには私の書物を「文庫本」と書いている人もいます。手に取ったら文庫本でないのは一目瞭然です。ネットの言葉は信用できないと言う典型です。難しい言葉やテクニカル・タームはすべてグーグルで調べて読むと言う人は、こういう類いの人々、一知半解の人なのでしょう。現象学とは、フッサールなどの現象学ではなく、端的に「現象の学」なのです。現われを記述し、記述した内容を分析すると言うのが現象学の根本なのです。フッサールの弟子だったラントグレーベやフィンクなどは、フッサール現象学をいわばぶっ潰して、現象学を「現れの学」として解釈し直そうとしています。フッサールの現象学も基本的にはそのように読めるのです。そのためには、思想の歴史とか現象学の歴史とか、あるいはウィキペディアなどを読む必要はないのです。現象学とは事柄そのもの、私の眼に見えるものすべてであります。フッサールの弟子筋のハイデッガーは、だからこそ、現象学の根本の精神を「事柄そのものに帰れ」と言う風に纏めたのです。
歴史やウィキペディアに頼らないで「事柄そのもの」を見るようにしてください。哲学の世界では、いつも何か新しい考えを生み出さないといけないのです。この世界は、毎日が新鮮で新しい現われです。特に現在の政治は毎日が新しいのです。とくに、現在の政治状況は恐ろしくはやく動いています。政治と言うのは、「人間が人間を支配する技術」です。
こういう眼でトランプ大統領を見るとどのように映るでしょうか。トランプは、事柄そのものにおいてみると、言い換えれば、さまざまな誤解、ざわめき、などを取り除くと、どのように見えるでしょうか。
まず、マキアヴェッリは、世界のさまざまなことが見える思想家であり、文筆家です。人間の感情を知っています。特に怒り、恐れなどを描写しています。マキアヴェッリによれば、怒りや恐れは、空間に広がるのです。むかし、ローマの町で人々が次々にひとを槍玉に挙げるということがあったのです。拙著の82ページをみてください。マキアヴェッリは、次のように書いています。「さて国家にとっていま一つの有害極まりないことは、市民同志のなかでいろいろな人物を次々と槍玉に挙げてこれに攻撃を加え市民全体に新しいとげとげしい雰囲気を醸し出すことである。10人会が廃止された後のローマの情勢がまさにこれだった。(・・・)こうなると貴族全体のなかに果てしない恐怖が広がってこんな告発の泥仕合を続けている限りそのうちに貴族全体が一人残らず滅びてしまうに違いないと信じるようになったほどである。」
このように恐怖が人々の間に浸透し広がると言うことがあるのです。恐怖も不安もまた恥じもすべて人々の間に浸透し、広がることがあるのです。私はそれを集合心性と呼んでいます。
もう常識なのですが、ドナルド・トランプは大統領としての給料を返納するといっていますし、実際、給料は要らないのです。日本の一部の政治家のように、給与のために大統領になったのではありません。大金持ちですから、「給料は要らない」と拒否しています。そういう人々は、非常に恵まれているし、まあ言えば、ふつうならば「遊んで暮らす」と言うところです。日本の江戸時代の落語に出てくるのですが、大店の旦那と言うところです。しかし、トランプには「遊んで暮らす」ことはできないのです。彼は、己と同じ白人の貧乏人が苦しむのには耐えられないのです。これは、いまや常識ですが、アメリカの学歴のない低所得層のために大統領になったのだと言えましょう。アメリカ人のなかには、大学に行っても結局大学を卒業できなかった人々、あるいは、大学にいけなかった白人がいるのです。非インテリのアメリカ白人です。トランプはそういう人々のことを考え、いわば、同情から、またそれ以上にアメリカのために、アメリカの白人のために何かをしなければいけないと思っているのです。
彼は、マキアヴェッリとおなじく人間の感情が空間的に伸び広がるということを良く知っているのです。とはいえ、黒人や有色人種を軽蔑することはないと思います。彼の基本方針は、いわば、理想や理念のない政治、経済を優先する政治、アメリカを豊かにする政治なのです。かれはもともと経済人ですから、これは当然でしょう。さらに、彼の最大の関心事は、アメリカの安全を確保することです。だから、彼を大統領にさせたのは、現代の状況、イスラム原理主義が9.11で同時多発テロを多くの人々(我等の同邦である日本人も含まれています。)を殺戮したのを忘れることは出来ないからです。トランプの家は、ニューヨークのトランプタワーですから、彼からすると己の家の近くが侵されたのです。皆さんの家の近くがこのように破壊されたらどう感じますか。ご存知のように、9.11はニューヨークで発生しました。これはトランプにとっては己の故郷がイスラム過激派に襲われたということに他なりません。オサマ・ビンラディンは殺されましたが、イスラム過激派は生きています。日本でも1991年7月11日に筑波大学でイスラムを専門にしている日本の研究者、五十嵐一氏が、「悪魔の詩」翻訳のことが原因で暗殺されています。未解決事件です。
I.S.の拡大を阻止しなければいけません。このように今の世界では、政治が極めてラディカルに動いています。政治動向がすばやいのです。
だから、「私は私の祖国を愛している」”Io amo la patria mia(...)”というマキアヴェッリの言葉にいわば呼応して「アメリカ第一主義」を唱えているのです。トランプは、人間の感情の拡がりと恐ろしさを知っています。だから、彼が一番恐れるのはいわゆるメディアです。メディアは、批判するだけで彼に共感し、感情を大衆と分け持つと言うことはないからです。
最近マキアヴェッリについての新しい研究書が出版されました。それは、さきほど指摘しましたようにマキアヴェッリは、喜劇作家でもあったと言うことに注目した書物です。村田玲『喜劇の誕生』です。マキアヴェッリは、「くそまじめ」を軽蔑しています。このときに重要なのは、彼は喜劇作家であり、楽しい感情、笑いの雰囲気=気分、こっけいな気分を重視していたと言うことです。いずれにせよ、マキアヴェッリは感情と政治の思想家であると言えます。
マキアヴェッリは、『マンドラゴーラ』という喜劇の作品を書いています。マンドラゴーラというのは、茄子科の植物ですが、その根には淫乱さをもよおす作用があると言われています。この喜劇の粗筋はかなり人を食ったものです。マキアヴェッリは、想像力があるなあと思います。簡単に言うと、フィレンツエの法学博士で、弁護士のニチアが、非常に若い、しかも美女、ルクレチアと結婚しているのです。しかし、6-7年経つにもかかわらず、子どもができないのです。この奥さんは美人である上にきわめて身持ちが正しく浮気などは考えたこともない人です。夫妻には子供がほしいのに恵まれないのです。
そこで、子どもをどのようにして作るかを考えるのですが、ここでこの奥さん、ルクレチアに横恋慕したパリ帰りの若者、カーリマコが、登場します。彼はその奥さんに子種を与えるために、彼女と寝ることを試みるのです。まさに策略ですね。そうして子どもを作ろうとするのです。ただし、この若者は医師に化けています。そして、医師として若い美人の奥さんに子種を与えるのです。最後のルクレチアの言葉が面白いのです。ルクレチアは、カーリマコにいいます。「私の夫が一晩だけのことだといって頼んだけれど、これからいつもこうしたいもの。だからうちのひとと身内同然の間になってほしいの。・・・身内も同然の間になれば、出入りはあなたの自由だし誰からも怪しまれずにいつでも会えるわ。」
この芝居で面白いのはまさしく視点の差異が出ていることです。夫のニチアは、ルクレチアを馬鹿だと思っています。しかし、ルクレチアも、夫を馬鹿だと思っているのです。その間に入ってきたのが医師と称するパリ帰りのカーリマコです。視点の差異と言うのは、マキアヴェッリが『君主論』で主張していたことです。このような喜劇が書けると言うことは、マキアヴェッリの面白いところです。マキアヴェッリというと『君主論』、『君主論』というとマキアヴェッリと言うような通り一遍の理解ではこの人の世を本当に理解したことにはなりません。事柄そのものを見ることです。
同じことは、トランプにも言えます。マスコミやメディアはいろいろ言いますが、しかし、トランプその人を「事柄に即して」見ることにしましょう。私は昨年の12月に日本フォーラム21でこの問題を話しました。しかし、当時は、まだトランプ氏については、よく分からなかった面もありました。大統領に選ばれて、10日しかたっていませんでした。そのあと、2月28日に彼は、施政方針演説を行いました。この演説を直接テレビのBSで聴きました。そのあと、朝日新聞には、3月2日の版で施政方針演説の概要が出版されています。そのときには、そう悪くないと思いました。トランプは、人間はとにかく何かを食い、どこかに住み、何かを身につけないといけないと言うことを良く知っているのです。人間がこの世界に生きるためには、衣食住が必要なのです。この人の世の生きかたを考えているのです。そのときに衣食住を確保するためにはとにかく働くことが出来なければいけない。そのような切羽詰った人々のことを考え、人々のために按配するのが政治家の役目であると言うことは良く分かっているのです。従って多くの政治家がやる「理念」論はまったくやりません。政治はどうあるべきか、政治はどのようにやるべきか、というような「べき」の話はまったくやりません。政治の理念にはまったく関心がないのです。その代わりに彼がやるのは、アメリカ人が安全にこの世を生きるためにはどうしたら良いかと言うことだけです。イタリア人が経験した「サッコ・ディ・ローマ」(1527年5月8日から一週間つづいた事件)に似たことをアメリカ人は経験しているのです。2001年9月11日の「同時多発テロ」です。同時多発テロでは、日本人も殺されています。他人事ではないのです。このテロがトランプの政治の原点だといって良いのではないでしょうか。
だから、トランプ大統領は、施政方針演説では第一に米国の偉大さの強調をしています。政治と言うのは、人間が人間を支配することですが、同時にトランプは、大坂弁で言う「ボケをかます」ことも平気で言います。ボケをかますというのは、ツイターでよくやるようです。彼はクソ真面目な精神をおそらく軽蔑しています。メディアは基本的にはクソ真面目ですからメディアとはそりが合わないでしょう。このあたりは、マキアヴェッリの喜ぶところです。マキアヴェッリは、とにかく喜劇作家ですから面白いことを考える政治家が好きだと思います。
第一に「米国の偉大さのあらたな章が始まっている」というのです。第二に、過激なイスラムのテロリズムから国を守ると言うのです。第3に、彼は自由貿易を支持する、がしかし、米国人を雇用し、米国製品を買うように促すのです。もし経済のみを考えるのであれば、アメリカの製品の品質を高め、値段を安くしないといけないのですがそこまでは言っていません。しかし、政治をもっぱら経済の方向で見る、国民の安全と国民を豊かにすることを第一に考えるというのは、マキアヴェッリも賛成するでしょう。最後に彼は、私の仕事は世界を代表することではなく、アメリカ合衆国を代表することだと言うのは、きわめて真っ当で当たり前です。マキアヴェッリは、喜劇を書いています。しかし、トランプは喜劇を演ずることは構わぬと思っているのではないでしょうか。つまり、「ぼけをかまし」、メディアが嫌いと言うのは良く分かります。世の中の政治家はメディアのご機嫌を取るのに汲々とするのに対して、トランプ氏はそう言う政治家の行為(ご機嫌取り)を軽蔑しているのです。
トランプは典型的なアメリカ人です。議論を詳細に展開するよりも、実際の成果を出すことを重んじるのです。名誉、グロリアの価値を知るということではまさにマキアヴェッリの考えと同じです。その意味では、アメリカのプラグマティズムの徒です。政治では、成果を出すことが重要なのです。それとともに、なぜメディアが嫌いなのか、も分かります。メディアは何も作らないからです。メディアは何も実質的なもの、自動車も石油も作らないからです。それと同じように、マキアヴェッリも理念をもたない政治の実務家です。私は大学の学長を2度やりましたが、大学で重要なのは事務局、事務方であるとつくづく思いました。大学の運営で最も重要なのは、事務方なのです。だから、マキアヴェッリもトランプも議論しているよりも実際の成果を出すことを重視しております。素晴らしい成果を出した時の満足感と歴史における名誉(Gloria)を知っています。(もっともトランプ政権はまだ始まったばかりなので確実には言えません。)